日々の想い

子どもたちへの想いや母の日常をつづります

8月が来るたびに~あの日の悲しみに胸が詰まる

8月がまたやってきた

 

私が子どもたちと暮らせなくなったのは8月

 

夏休みがあと10日で終わるという8月の終わりだった

 

その頃の私は・・・

 

長年住み慣れた社宅廃止に伴う引っ越しをして

 

心が不安定になっていた

 

引っ越しした3月に

 

東日本大震災があり

 

さらに心が不安になった

(東日本に住んでいたので電気や電車、お店などに大きな影響があった)

 

そして

元の場所の近くに行きたいとか

社宅を変わりたいとか・・・

 

私は心が不安定になっていった

 

私たち夫婦が

その時にきちんと支えあえるような関係

お互いに相手を想いあえる関係であったなら

離婚になっていなかったのだろう

 

私たち夫婦は・・・

いとも簡単に壊れてしまった

 

私は信じられなくて

 

こんなに冷たく切り捨てられる現実に

驚き焦り

さらに相手方を怒らせて・・・

 

子どもたちとそれからまともに会えないままで

離婚を受け入れることになってしまった

 

子どもたちを

遠くに行かせたくなかった

 

そもそも

子どもたちが生まれ育った場所に戻りたい

子どもたちを元の場所で暮らさせてあげたい

 

という想いで心が不安定に揺れていたのに

 

さらに遠い場所に子どもたちを連れて

引っ越しするなんて

 

そして元夫は

仕事まで辞めると言った

 

次に何も決めないで

仕事を辞めて

もしも仕事が見つからなければ

アルバイトからでもいいと

 

完全に同居をすれば

私が

ワガママを言わないだろうと

 

もしケンカになっても

親がとめてくれるだろうと

 

私はさらに焦って不安になった

 

 

・・・もう元の場所に戻りたいっていわない

実家への引っ越しをやめてここで家族で暮らそう!・・・

 

 

と必死に懇願したが

後の祭りだった

 

そこからは

その計画がどんどん進められて・・

 

私はもっともっと

心が苦しくなっていった

 

子どもたちを

そんな遠くに引っ越しさせるなんて

 

そして

私だけしばらく自分の実家に行くことになった

(しかしこの時点で義母は私を切り捨てようと考えていたのだろう・・と今ならわかる)

 

そこから

私と子どもたちが一緒に暮らす日々は途切れてしまった

 

まるでパソコンが強制終了させられるように

一枚の紙が二枚に切り裂かれるように

 

 

一緒に暮らせなくなっただけではなくて

 

子どもたちと普通に話すことも

笑い合うことも

子どもたちにご飯を作ることも

子どもたちの話を聞くことも

出来なくなった

 

病気扱いされて

病院を受診させられ

病気が治るまで実家にいろと言われて  

 

 

引っ越しのショックで

一時的に不安定になっただけで

うつ病とか精神的な病気じゃない

と病院の診断が出て

 

やっと

子どもたちのところに呼んで貰えるのかと

思ってそれを伝えたら

 

 

・・・病気じゃなかったのなら性格が悪かったのだから一生許さない!

いつ呼ぶかはこちらが決める 全員がいいというまで実家にいて実家の手伝いでもしておけ!・・・

 

と言い渡された

 

 

それは別居になってから

わずか2ヶ月後のことだった

 

元夫も義母と同じ

もう私を切り捨てたくなったのだろう

私に対してますます理不尽なことをやり

理不尽なことを言った

 

心のある人間がやらないことや

心のある人間が言わない言葉を

氷のような言葉を

投げつけてきた

 

そしてすべての私とのゴタゴタを

子どもたちと一致団結するために共有し

子どもたちの心をさらに硬く縛りあげた

 

これで片親疎外にならないはずはない

 

板挟みの子どもたち・・・

 

自分たちの生活の安全を守るには

一緒にいるひとたちと考えを同調するのが最善なのだ

と意識的にも無意識的にもわかったのだろうと思う

 

私を敵にすることが

その時の状況を保つのに最善だと悟ったのだろう

 

子どもたちの様子はどんどんどんどん

私から遠くなっていくように見えた

 

私はいつ呼んでもらえるかわからなくなってしまったことや

別々に暮らしていても自由に会えると思っていたのに

突然「面会」という月一回一時間しか子どもに会えなくなったこと

子どもたちが普通に電話で話さなくなったこと

相手方がどんどん理不尽になっていくこと・・・

などに

どんどん気持ちが焦り

子どもたちに会うためにいろいろな行動をとった

 

それが

すべて裏目に出て

相手方をさらに怒らせ

離婚を言い渡され

家族から無情に切り捨てられた

 

17年も夫婦として

二人三脚で頑張ってきたのに

家族として歴史を紡いできたのに

 

こんなに簡単に壊してしまえるんだ

 

このひとたちはいとも簡単にこんな無情なことが

出来るひとたちだったんだ

 

母親と子どもを切り裂いて会わせなくする

そんなことが出来るひとたちだったんだ

 

そのことが本当に本当に悲しかった

 

私たちが築いてきた家族って

いったいなんだったんだろう

 

私たち夫婦って

いったいなんだったんだろう

 

それまで築いてきた家族の暮らし

これからの未来

子どもたちとの暮らし 子どもたちの未来

家族のこれからの未来

夫婦としての歩み・・・

 

それが失われようとしている・・・

そのことが辛く悲しく苦しかった

 

こんなに脆く簡単に崩れ去る家族・夫婦だったなんて

 

 

・・・家族もう一度一緒にやり直そう!・・・

 

・・やり直す⁉まるでこちらに落ち度があるような言い方!・・

 

 

・・・子どもたち一人一人と話をさせて!・・・

 

・・どうせ子どもたちを丸め込むまがいのことをして自分の方に子どもを来させようとするのでしょう!一対一で会わせるつもりはありません!離婚カウンセラーからも絶対に会わせるなと言われていますから!・・

 

 

・・・もう一度二人できちんと話をする日を設定して!・・・

 

・・二人で会うつもりはありません 離婚の話も子どもと一緒の面会時にしかしません!・・

 

他人行儀の冷たい言葉・・・

 

私の想いは届かなかった

 

 

離婚を受け入れるまで

本当に辛かった

 

でも

離婚を受け入れてからも

辛さは消えなかった

 

きちんと向き合って話しが出来ず

・・・離婚する!離婚する!・・・

と言い続ける相手の気持ちを受け入れざるを得なかったから

 

子どもたちにきちんと会えないまま

いきなりほぼ断絶状態に追い込まれた状態の中での離婚成立だったから

 

離婚を受け入れる決心をしたとき

頻繁にではないが

途中から自由に連絡出来るようになっていた

長男に連絡をした

 

それから長男は頻繁に連絡をしてくる

ようになり

自由に会えるようになった

 

これは

ほんとに大きな喜びだった

 

そこから

私は長男との交流を大切にし

次男と長女に会えるという希望の光に向かって

一歩一歩歩いている

 

あれから

8年・・・

 

下の二人の子どもたちに会えない辛さ

 

子どもたちを複雑な家庭環境においてしまったこと

 

若い時に想い描いていた普通の人生を送れなかったこと

 

自分が生涯支え合ってどんな道も乗り越えて

添い遂げようと思って結婚した人生のパートナーと

共に白髪になるまで添い遂げられなかったこと・・・.

 

 

一生懸命築いてきた家族が壊れた悲しみは

ときおり心を締め付けるけれど

 

あの頃よりは

顔をあげて

前に向かっている自分を感じる

 

一歩歩いて

二歩も三歩も下がる日もあるけれど

 

確実に前に進んでいる

 

その道の先に

 

子どもたちの笑顔と私の笑顔

美味しいご飯と楽しい会話

楽しい時間

そして

子どもたちそれぞれの優しい人生のパートナーと

その子どもたち・・・

私は孫たちと遊ぶおばあちゃんになって

今まで過ごせなかった空白の時間を取り戻す

孫たちの学校行事に変装などせず堂々と見に行く

 

堂々と見に行けなかった子どもたちの姿を孫の姿に重ねながら・・・

 

子どもたちの心を考えず

今自分勝手に堂々と女性と交際しているような

あのひとにはその幸せはない

(心が狭いけれど今の私の正直な想い)

 

きっときっとそんな暮らしが

待ってる

 

8月が来るたびに心を新たに

子どもたちを想う

 

 

離婚で壊れる子どもたち 心理臨床家からの警告 (光文社新書)

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立ち直る力

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